Mag-log in何とか入浴を終え、パジャマに着替えた俺は自室のベッドに倒れるように寝転がる。 「ああ、疲れた」 たかが飯を食うだけ、たかが風呂に入るだけでなんでこんなにも疲れるのでしょう? 理由は一つしかない。 「さ、音楽を聴きましょう!」 「寝ます」 俺はゴロンと寝返りを打つ。 しかしアコは俺の肩を掴み、無理矢理ひっくり返してきやがったではないか。 「ええええええ! じゃあ寝ホンしましょう」 「寝ホンって何?」 初めて聞く言葉である。 「寝ながら音楽を聴くことです。断線の原因になります」 「じゃダメじゃん」 俺による至極まっとうな突っ込み。 アコは口を抑え、はっとなったように目を見開く。 「あ、そうでした! 私、リケーブルできるから大丈夫」 「リケーブルって何?」 「イヤホンのケーブルを交換できるんですよ! 別売りで! 断線対策は勿論、ケーブルを変えることで音質を向上させられるんですよ!」 「…………」 俺はじろじろとアコを見る。人間である。どこからどう見ても人間である。 となれば、言うべき言葉はこれしかない。 「君のどこをどう変えるわけ?」 「そりゃあ、勿論――あ、しまった! 今私人間だからリケーブルしたら腕引っこ抜けます」 「……ばーか」 「ひどい!」
かぽーん。そんな擬音が今にも聞こえてきそうなぬくもり。 「ふう、やっと解放された……」 湯船につかり、やっと一息つける。 俺は浴槽に背を持たれ、ぼんやりと考える。 「しかしなんだありゃ? 一体俺にどうしろと……」 いや、何度も彼女は言っているのだからそれはわかる。俺にオーディオとやらを揃えて聴いてくれと言っているのだ。 それを断わった理由の一つは金だ。俺は学生であって、アコが提示したであろう機器を揃える金がない。 だが、あくまで理由の一つでしかない。 俺にとって最大の拒否理由は、何かを望むことが怖いのだ。 何も望まず、何も考えず、何もやらない。それだけがコンプレックスにまみれた俺の処世術であって、俺の未来に何か、得体の知れない恐怖のようなものをぼんやりと抱いてしまうのだ。 失うとか、無くすとか、そういう具体的なものではない。 ただ、ぼんやりとした恐怖、いや、不安であった。 俺ははは、と苦笑して湯船に顔をうずめる。ぶくぶくと泡を立てる。 と、その時。 「八島くん!」「わあ! 何で来るんだよ! 濡れたら壊れるんだろ!?」 俺は声を上げずにはいられなかった。 まさかそこまでするとは思わなかった。 しかしアコの裸体か。実は全く興味がないわけではない。朝見たけどな。 俺は湯船から顔を出し、ちらっと見る。 ――衝撃的であった。 「ですからビニール被ってきました!」 「…………」 そう、アコの言う通り彼女はビニールを被っていた。凄い大きいやつ。頭からつま先まで完全に覆われている。しかもビニールが黄ばんでいる。しかもなんかパリパリしてそうというか、固まっているような。 どこから持ってきた? 「どうしました?」 「息出来るの?」 俺は全くどうでもいいことを質問してしまった。 いや、聞くべきはそこじゃないだろう。 「私人間じゃありませんから」 でも、彼女が言ったその一言であることに気づいた。
結論を言うなら、わかってくれなかった。「…………」 「ねーねー、私で聴いてくださいよ、音楽」 今日の夕飯はサキが作り置きしてくれたカレーだった。三日分ほど作ってくれたため、寸胴一杯にある。腐らないか心配だ。あとで小分けにして冷蔵庫に入れないと。俺は取り敢えず寸胴を温め、飯に盛った。辛口のカレーから漂う香りがつんと鼻を刺す。 「…………」 「黙ってないで、はい、耳ぷすっです」 俺はカレーをテーブルに置き、スプーンを手に取る前に耳に突っ込まれた指を払う。 さて、食おう。 「…………」 「あん、もう勝手に抜いちゃダメですよ。そういうの断線の原因になるんですよ」 俺はカレーを一口だけ食うとかちゃっと音を立てながらスプーンを置き、後ろでず――――――――っと抱きついているアコに向けてゆっくりと声をかける。 「あのね、アコさん」 「アコでいいですよ」「じゃアコ。俺が言いたいことわかるか」 「はい! オーオタになるにはどうすればいいかってことですね!」 どんっとテーブルを殴りつける俺。 「ちげーよ! さっきから四六時中俺に絡みやがって! なんでべったり俺にくっつくんだよっ!」 女の子に絡まれるのが嬉しくないわけではないが、こうも何時間もずーっとくっつかれるとはっきり言ってうざい。美女は三日で飽きるというが、ハグは三時間で飽きる。 てか暑苦しいんじゃ! 飯食いにくいんじゃ! のけっ! しかしそんな俺の気持ちはちっともわかってはくれなかった! 「だって私イヤホンですし。ケーブルがご主人様に絡むのは当たり前じゃないですか」 「fっじょrjgじぇあ!」 もはや言葉にならない。何て良いかわからない。 この女には常識というものがないのだろうか? 「ジャパニーズプリーズ」 言いたいことは山ほどある。とにかく言いたいことが山ほどある。 だが、あまりにも多すぎるのでとても言えない。となれば―― 「取り敢えず常識的なことだけ言う」 「はい!」 アコはとても嬉しそうに返事を
俺はひくひくと眉をひそめる。 「……自分で悪霊って言っちゃうんだ。で? 俺に何して欲しいの?」 「はい! 私八島くんに踏まれて壊されちゃったのでまずそれを修理して欲しいです!」 まあ確かに踏んで壊したのだから、その意見そのものは至極まっとうである。 ただし、それはあくまで意見それ自体の話である。 「俺イヤホンなんか直せない」 そう、はっきり言って俺は手先が不器用だ。電子機器の工作なぞしたことがない。 自分で言うのもなんだが本当につまらない人間なのである。 何の特技もなく、何の取り柄もなく、何を思うわけでもなく。 でも、それを知っているからこそ身分相応にただ黙って生きてきたし、多分これからもそうなのだ。 それを、アコは否定しているわけで。 一体どうしろというのでしょう。 そんなことを悩んでいると、アコは何てことのないようにこう言い放つ。 「イヤホン専門店で直してくれますよ。数千円で」 「……高いね。で、それで成仏してくれるの?」 「いいえ」 「なんでだよ!」 意味ねーじゃねえか! するとアコは俺の手を握り、妙に真剣な顔つきでじっと見つめてきたではないか。 「だって八島くん、せっかくお姉さんに買って貰ったのに全然使ってくれる気配がないじゃないですか。欲求不満なんですよ、私」 昨日の今日で使えってか? どんだけせっかちな悪霊だよ。 俺は頭をぼりぼりと掻きながら視線を逸らし、少しだけ申し訳なさを込めながら。 「使ってって言われても……俺あんまイヤホンとか使わないし」 「ええ!? 私こう見えても八万五千円もするんですよ!?」 仰天。 「はぁ!? なんでたかがイヤホンがそんなにするんだよ!?」 「だって私、一磁極性バランスドアーマチュア型シングルBAイヤホンのフラグシップモデルですし」 「…………」 何言ってるのかさっぱりわからん。 目をぱちくりさせている俺を見つめながら、アコは眉間に少し皺を寄せながら高らかにとんでもないことを
俺はベッドに腰掛け、はぁ、とため息をつく。 目の前にはサキの服をまとったアコの姿がある。身長に違いがあるのか結構だぶだぶである。それはそれで何か可愛らしさが漂っているので俺ととしてはこれ以上特に言うことはない。 「えーと、取り敢えず服は着せたからいいとして――」 まず、彼女を呼ぶにしても何と呼べば良いのかわからない。俺は腕を組み、うーんと首をひねる。 「えと、名前が……」 すると女の子はだぼだぼな袖を引っ張りながら妙に通る声で元気よく答える。 「AHP004と言います」 「人間の名前じゃねえ……」 「イヤホンですから」 AHP004はなんてことのないように言った。 俺はもう一度深いため息をつき、ぽすんと枕に背中を預ける。腰に変な負担がかかってちょっと痛かった。 「なんか呼ぶとき強烈な違和感があるから、別の呼び方ない?」 AHP004は俺の隣に座り込み、人差し指を口元に添えながらうーんと天井を見上げる。その表情はどことなく稚気を感じさせ、なんていうか、こんな時なのにかわいいと思えるほどだった。 「と言われましても……あ、じゃあこうしましょう。私、同社イヤホンのフラグシップですからフラグちゃんとでもお呼びください」 とはいえ、だからといって彼女の案を受け入れられるかというと、話は別である。 「それも呼びにくいなあ。それにフラグシップって別に君以外にもあるよね? 他社ならさ」 「まあ、そりゃ」 「なんかこう、君を現すに相応しい、こう、なんかいいのない?」 できれば人間っぽい名前はないのだろうか。 正直人間に向かって数字を使ったり、フラグちゃんなどという縁起の悪い名前を口にするのはどうにも憚られるというか、精神的にあまりおよろしくない。 まあ、あくまで個人的な感情でしかないのだけど。 「あー、じゃあ我が社の名前からもじってアコというのはどうです?」 「アコ……。おお、それは人の名前っぽくていいね! よし、決定!」「おそれいります」 AHP004、もといアコは誇らしげに小さく頭を下げた。 さて、これ
初夏。日増しに気温は高くなり、青々とした空が四時を過ぎても維持されるようになった五月下旬。 長袖ではもう暑くて仕方がなく、俺はブレザーを脱いで肩にかけながら電車に揺られ、帰宅の途につく。 電車の中には帰宅途中の学生の姿がちらほら見える。リーマンの姿はさほど多くなく、彼らはまだ働いているということだろう。 俺はドアに体重を預け、窓から街並みをぼんやりと眺める。 何の変哲もない地方都市。東京のようにビルがひしめくことはなく、少し走れば田園風景が広がり、忘れた頃にマンションやオフィスビルなどがぽこぽこと姿を現し、また消えていく。 道路はかじってテーブルにこぼしたクッキーの破片のようにパラパラと見える。白や銀の車がヤケに多いのは彼らの美意識が共有されているからか、それとも目立つのが嫌だからか。後者ならば俺も同じだ。 いつもの風景。特に何か思うこともない平均的で、平凡で、退屈で、でも、それでいいと思える景色。 特別なことなど必要か? 個性なんか必要か? 俺はいらないと思う。あるいは、仮にあったとしてもそれは世界に対して何ら影響を及ぼさない。そして、それでいいのだと。 何も考えず、何も思わず、自動的に生きていく。 ――だってそうでないと、俺は嫉妬に押しつぶされてしまうから。 「おかえり」 家に帰るなり、リビングからサキの声がつまらなそうに響いた。 サキというのは姉のことだ。 「ただいま」 俺が返事をしながら靴を脱ぎ、リビングには行かず自室に戻ろうとして――「誕生日おめでとう」 そんな声と共にドアが開かれ、サキがひょっこりと顔を出してきた。栗色の長髪がやけに目立つ細身の女性。姉とは思えないほど顔の造形が整っている。 背も高いし、凜々しさを全身からオーラのように漂わせているし、なんていうか俺とは違う。 強いて言うなら胸のサイズは俺と大して変わらん。 ……男と比較するのは失礼か? まあいいか。 と、サキが刃物を思わせる鋭い双眼でじっと俺を見つめながら不思議そうに首を傾げる。 「どったの?」